8月29日 福岡市職員の飲酒交通事故
先日、福岡市職員の飲酒交通事故があり幼児3人が死亡した事故があった。川に転落した車の中から2人の子供を抱え出すという映画のような奇跡だったが、残念ながら幼児3人は死亡した。両親が助かっただけでも奇跡だが、子供が全員死亡するという対照的な事態が悲しさを際立たせる。事故現場は橋の上であり、本来ならばガードレールで落下しないはずなのだが、片側が4mの歩道であった為に歩道側は車用のガードレールでは無かった為に強度が弱かったという信じられない偶然の事故だったと言える。報道では飲酒が強く非難されているが、本当に飲酒が第一原因だったのかは疑問であり、これをもって単純に飲酒運転の罰則強化をしても効果があるものかどうか疑問である。事故車は80km/h以上のスピードを出していたようだが、飲酒でなくとも長いトンネルや橋の上ではスピードの出し過ぎになり、80km/h以上のスピードで走っている場合がよくある。また当人は友人と話していてブレーキが遅れたと言っている。飲酒がまったく要因になってないとは言えないが、第一の原因はよそ見運転だったのではないだろうか。今回の事故は市の行事ではなく、私的な範囲であるから責任を市に求めるのは筋違いだろう。過度に職場に責任を求める事は社会の歪を大きくし、社会の健全性を損ねるように思う。それはまるで戦時中の隣組制度と同じような状況である。今回の事故では、もし友人が乗っていなかったなら話に夢中になる事も無く事故は起きなかったかもしれない。同乗していた友人の責任を現在の法律でどれだけ問えるかはわからないが、今回のような大きな事故を起こした場合は同乗者も飲酒運転を認めていると考えられ、同乗者が飲酒運転したと同等の処罰や連帯損害賠償責任を受けるのが妥当ではないかと考える。精神論でなく、事故を科学的に分析し事故を少なくしていく事が重要である。
8月25日 ハーマンの乾燥機からの出火
ハーマン社の乾燥機から出火して火事になる事故が相次いでいるそうだ。それで修理をしたのだが、修理の際に電線をヒートシンクの近くに配置してしまった為に修理直後の乾燥機から出火したという。お粗末な話ではある。だが、はたしてそれで火事になるのだろうか。ヒートシンクは熱くなるがそれで燃えるほどの温度にはならないように思う。仮に燃えたとしても、普通、電線は自己消化性といって燃えにくい素材が使われている。例えヒートシンク近くの電線が過熱して燃えたとしても、それだけでは電線の一部が燃えるだけで、燃え広がらないのではないだろうかと思う。会社が言うような燃えてしまって原因がわからないほどには燃えないだろう。事故原因がきちんと検証されてないと思う。事故原因がしっかり検証されないのは技術不足だろう。設計者が外注などで技術者不在の会社なのだろう。設計を外注するのはいいがきちんと技術を踏まえた上で外注しないと信頼性のある製品は作れない。どこかエレベーターの事故に似たようなところがあるように思う。
8月9日 終戦記念日
毎年、8月15日の終戦記念日が近づくと必ずと言っていいほど戦争や靖国問題がテレビを席巻する。過去の事を伝えるのは良いことだが、それだけで終始するのは片手落ちだろう。日本の未来を展望することも必要だろう。過去ばかりをみて何になるのか。過去を振り返り将来を見極める事こそが重要であろう。テレビや新聞は現在や過去は伝えるが、将来を予測しようとはしない。それは難しい事だがやらなければならない。そうでなければ、いつも失敗してから社会を修正するという事になり、社会の損失は計り知れない。将来を予測する事で、社会はより早く進歩するだろう。
靖国神社問題は靖国神社が国で運営しているものではないから、国が何らかの指示を強制する事はできない。昭和天皇はA級戦犯が合祀された事で以降の靖国神社参拝を取り止めたことは事実だろう。しかし、昭和天皇はA級戦犯全員に対して嫌悪感をいだいていたとも思えない。A級戦犯の中には戦争推進派と戦争反対派がいたようである。そうであれば昭和天皇はA級戦犯の中の戦争推進派に対して嫌悪感を抱いたというのが妥当な推測だろう。宗教というものが犯罪者に対してどういう対応をするのかを考えてみる。仏教ではどんな極悪人でも救いの手を差し伸べる。それはキリスト教も同じである。極悪人に対して宗教が救いの手を差し伸べるというのは一般人には合点の行かない事もあるが仏教もキリスト教もそうであるという事は人間が宗教に求めるものが慈悲の心である事を示唆しているように思われる。もし仮に何処かでこれ以上の犯罪者は宗教が見捨てるとしたら、その区分は非常に難しいものとなるだろう。どこにその境界をおくかは意見の分かれるところだろう。そういった矛盾点を完成された宗教は解決済みという事だと思う。そういう観点から宗教法人である靖国神社をみてみれば合祀もまた合理的なものと解釈せざるを得ない。しかし、A級戦犯が合祀された事で昭和天皇のように戦争に直に立ち会った人としては参拝をためらう怒りが込み上げるのも無理からぬ事だろう。ましてや、日本を外から見ている中国や韓国からすればA級戦犯合祀が合点のいかないであろう事は当然の事だろう。しかし、それをもし中国や韓国の宗教上級者がみたならば合祀を否としないのではないかと思う。もし中国の宗教上級者が合祀に反対するのならそれは極悪人には救いを与えないという事になり、そういう判断をする宗教者が広く人類を愛する宗教者とはなり得ないだろうと推測する。合祀に反対するのならその宗教者にその理由を聞いてみたいものである。結局のところ靖国神社参拝が非難されるべきものであるかどうかは参拝者の精神によるという事になるだろう。戦争推進者を崇めて戦争を推進しようと参拝するなら、それは非難されるべきであり、平和を願って参拝するのなら何ら非難されるものではないだろう。
しかしながら、昭和天皇がそうであったように一般人が参拝する場合にA級戦犯が合祀されていなければ参拝できるという人もいるだろう。もし、合祀されていなければより多くの人が参拝できるだろうという事は現実的に確かな事だろう。しかし、それがどんな宗教であれ宗教の立場から見た場合にどういう矛盾があるかは私には想像がつかない。イスラム教の長の人にも合祀や靖国神社参拝がいけない事なのかどうか理由を聞いてみたいものである。
靖国神社を語る時、よく赤紙が来て天皇の命令で戦争に行かされたという話がでる。しかし、当時、天皇にはまったく権限がないとは言えないが絶対の権限は無かったという事は事実だろう。平安時代以降天皇が実権を握った事はない。召集令状に書かれていた天皇は権威の象徴としてあったのであって、戦争は当時、選挙によって選ばれた政府が決めた事であって、天皇が独断で決めたわけではない。天皇の命令で戦争に行かされたというのは真実ではない。
合祀が妥当であったかどうかは議論の余地があるとしても、おそらく宗教の観点からみれば靖国参拝は何の問題もないものだろうと思われる。今後、分祀が行われた場合にそれをどうとらえるかと言えば、信教の自由のない遅れた中国という国が2006年の現在も存在したという事だろう。今もまだ世界には自由の無い国やとてつもなく貧しい国が多すぎるという事である。
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